関口知宏の欧州を列車で巡る旅のダイジェスト版を先日観ました。
その中で、彼が今も印象に残る人達のコ-ナ-
彼が目的地を探している最中に出会った尼僧
当時80歳を越えていた彼女は片田舎の片隅にある小さな僧院を40年余りの間
たった一人で守っている。
関口は彼女に「何故、そんなに長い間いるんですか?」と尋ねた。
彼女は微笑みながら「祈るために」と明快に答えた。
「祈る」事が出来るのは人間のみに許されたものだと、学者が言っていたのを
思い出した。
はたして そうなのだろうか。
多くの動物は仲間を助け、親は子を慈しむ、喜びや悲しみの表情を見ると
生きとし生ける者の感情は同じではないだろうか。彼らも祈る心を持っている気がする。
「祈る姿」は美しい。地球に生きる全ての動物の中で唯一、罪深い人間。
私達は何を祈っているのだろう。
「祈りの人は誠実である」「祈りは心を洗い、心を深め、人格を作る」と云われた方がいる。
だが、座して祈るだけでは、一般的な僧籍つまり、そのことを生業にする方達と同じになる。
更に「祈りは目に見えない。しかし透徹した祈りであれば、やがて必ず目に見える姿になって現れてくる。」とも云われている。
私達は日々生きる作業に必死ではないか。生ある事は、かけがえのない贈り物であると共に娑婆世界で苦闘を強いられているとも感じる。
世界の人々がコロナ禍で苦しんでいる。コロナだけではなく、人種差別、内紛等々、悩みは尽きない。
私自身が今 出来得る事を考えてみた。
家族を慈しみ、何か困っている隣人に自分が出来得る事で手を差し伸べる事位だ。
昨日 私は69歳の誕生日を迎えた。友人、主人や子供達から心温まるプレゼントを頂き穏やかな一日を過ごせた。
子ども達には、これからも自分の姿を通して「艱難辛苦」を乗り越え、まだまだ成長していく為の「祈り」を伝えていけたら・・・と思う。